※本サイトはアフィリエイト広告を利用しています

[大阪:史跡・旧跡] 西成大橋の親柱

この記事は約3分で読めます。

現在、新淀川に架かる橋で大阪市内から西淀川区・尼崎・神戸方面へ向かう橋と言えば、国道2号線の淀川大橋があります。この淀川大橋が完成する前、すぐ近くには西成大橋という橋が架かっていました。

Kobea0003_11
▲新淀川に架かる淀川大橋(国道2号線)

今は存在しない、西成大橋。この西成大橋の親柱が、左岸(福島区)と右岸(西淀川区)にそれぞれ残っています。

八坂神社

Kobea0005_6

福島区海老江にある八坂神社。

Kobea0004_7

ここに西成大橋の親柱があります。西成大橋は1908年(明治41年)に完成しましたが、幅5.5mの橋であったため、馬車などの通行量増大により拡幅が必要となりました。

阪神国道電車(路面電車)も通る大きな橋として1926年、西成大橋の真横にほぼ平行して現在の淀川大橋が架設されました。

鼻川神社

Kobea0002_7

もう一つは新淀川右岸、淀川大橋の北詰からほど近いところにある鼻川神社に西成大橋の親柱があります。

Kobea0001_7

ここに親柱があります。

なぜこの2つの神社に親柱が残されているのかはわかりません。

西成という名前を聞くと、西成区を思い浮かべる人が多いと思いますが、元々今の福島区(新淀川左岸)も西淀川区(新淀川右岸)も摂津国西成郡として広域には一つまとまったエリアでした(→過去記事)。明治以後の自治体単位で考えれば左岸の八坂神社のある海老江、右岸の鼻川神社のある花川ともに西成郡鷺洲町として一つの地域でした。

治水のためとはいえ新淀川の掘削により西成郡鷺洲町は左岸(南側)と右岸(北側)に分断される形となり、左岸と右岸を結ぶ西成大橋が1908年に架設されました。

前述の通り1926年に淀川大橋として架け替えられたのですが、その際に西成の名前は引き継がれませんでした。淀川大橋が完成した1年前、1925年に西成郡鷺洲町は大阪市に編入され大阪市西淀川区になっています。そのため、西成郡ではなくなったから西成の名前は使わずに淀川大橋という名前になったのかな?と私は推測しました。

P7068666
▲淀川大橋(淀川陸閘)閉鎖訓練(→過去記事

西成大橋という名前が消滅することから、左岸と右岸の神社それぞれ西成を冠した親柱を残したのかなーと思いました。あくまで推測の域をでませんが。なお、その後の行政区の変更により、左岸は福島区、右岸は西淀川区になっています。

おわりに

2015年5月17日に大阪市の廃止と特別区設置の是非(いわゆる大阪都構想)を問う住民投票が行われます。それを機に、地名の由来とか(現大阪市域の)自治体の変遷などをいろいろ調べているんですが、面白いですね。

[関連記事]
鼻川神社の夏祭り十三のいま昔を歩こう
海老江八坂神社の夏祭り十三のいま昔を歩こう

[参考文献]
・国道2号淀川大橋 ~歴史的橋梁の維持管理~(国道交通省近畿地方整備局 大阪国道事務所)
http://www.kkr.mlit.go.jp/osaka/kanri/yodogawa/yodogawa.pdf

タイトルとURLをコピーしました