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自分ができることに対して、どれだけ主体的になれるかどうか

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とある都道府県警察のツイッターで、次のような内容がつぶやかれていた。

“本日の早朝、小牧市内で通学中の児童2名が押しボタン式信号のある横断歩道を横断中に自動車にはねられる交通事故が発生しました。児童がいらっしゃる家庭では、青信号で道路を横断するときや横断歩道を横断するときも油断せずに左右の安全をしっかり確認することなどについてご指導をお願いします。”

出典:『愛知県警察交通部(@AP_koutuu)さん | Twitter』<https://twitter.com/AP_koutuu/status/984340194898800640> – 2018年4月14日閲覧

このつぶやきを見て、やはり青信号であっても、まず左右を見て安全を確保してから道路を渡るのが大事だなと単純に感じました。しかしながら、少ないながらもこのツイートに対しては批判のコメントばかりだったのです。

批判のコメントは次のようなもの

・歩行者の問題ではなく、クルマの問題では?

・警察の取り締まりが甘いから

・いかにも児童が悪いような書き込みになっている

・悪いのは完全に車

・家庭での指導ができてないみたいに言われて可哀想

・信号を守って横断歩道を渡っていた子どもに何の落ち度があるというのか?

・取り締まりを怠った警察の責任

※内容は多少修正を加えています

私が率直に感じた感想とは違い、警察がこのようなコメントを出すのはおかしい、というような内容でした。

 

警察が言いたかったことは何か?

もちろん、警察の方が交通事故が発生したのは家庭が指導していないのが悪い、左右を確認しない児童が悪いといった主旨でコメントを出すとは到底思えません。

あくまで、自動車の問題がどうというのとは切り分けて、安全を確保するためにこうしましょう、という主旨であると考えています。

7つの習慣で言えば、安全を確保するために自分が直接変えられない「関心の輪」ではなく、自分が直接変えられる(自分の行動で改善できる)「影響の輪」に注力してね!ということを警察の方は言いたかったんだと思うのです。

しかしながら、どうもその考えが全ての人に伝わっていないようでした。

なぜボタンの掛け違いが発生したのか

このように、Twitterというコミュニケーションツール上で、ボタンの掛け違いが発生してしまいました。なぜ、このようなことが発生したのでしょうか。自分なりに考えてみました。

①上から目線に感じられた

痛ましい交通事故が発生したのですがそれを機械的に記述し、最後に「ご指導をお願いします」というコメントが冷たいというか上から目線的に感じられたのではないかと考えました。

なお、この愛知県警察交通部のこのつぶやきの文字数は139文字!ツイッターの制限140文字ギリギリの文字数なのです。おそらく伝えたいことを文字数内に抑えるために、相当文章を遂行されたのではないでしょうか。

確かに冷たいイメージに捉えられかねない文章かもしれませんが、ツイッターの140文字に収めるためにこのような文章になってしまったのではないかと、推測します(140字に抑えるのって難しいですよね)。

②普段から不満を持っている人が多かった

普段から警察に対して、または無茶な運転をする自動車に対して、不満を持っている方も多かったのではないでしょうか。そのために、今回の事象に対して、交通の取り締まりや自動車側についての記載がなく、歩行者側の意識等だけに触れられていたから、というのが気に食わないというか、反感を買う原因になってしまったのでしょうか。

どちらかというと、一般市民および歩行者からして、警察の方や自動車はどうしても強者になってしまいます。そのあたりが、不満の原因になってしまったのではないでしょうか。

③そもそもベクトルが違う

警察の方の目線は、どうしたら交通事故を発生させないようにするか。一方、一般市民からすれば、交通事故の原因は何なのか。

そうです、目線(ベクトル)が違うのです。だから、話が噛み合わなくて、このような批判的コメントが出てしまったのだと思います。

そういう点では、どちらの考えが悪いとかそういうレベルの話ではありません。

どちらも、正しいのです。どちらも合理的に考えている話なのです。

コミュニケーションとは?

ソースが見つけられなくて申し訳ないのですが、ある有名なブロガーの方がこのような発言をしておられたのを思い出しました。

受け手中心のコミュニケーションはしんどい

よく言われるのが「コミュニケーションは受け手が決める」という話。

“「コミュニケーションは受け手が決める」と言うのは、コミュニケーションにおける原理であり、定義である。決して、「コミュニケーションは受け手が決めるべきだ」とか、「コミュニケーションは受け手が決めた方が良い」という事を言っているわけではない。”

出典:コミュニケーションは受け手が決める: D-logs<http://d-gotoh.cocolog-nifty.com/dlogs/2010/12/post-aedf.html> – 2018年4月14日閲覧

確かに、受け手の判断がすべて、というのはしんどいハズです。発信者がコントロールできないのですから。でも、コミュニケーションの流れというのは、言葉のキャッチボールという時点で、最終判断は受け手が決めてしまうものですね。

それを考えると、発信者は常に受け手が決めるということを認識するしかないと思います。ただし、受け手は自分が決定権を握っているのだから、ものすごく責任重大な話です。発信者の伝え方が悪い、というのは他人ごとです。受け手は受け手で、ちゃんと発信者の意図を理解しようと努めないといけないのです。

発信者、受け手、それぞれが自分のなすべきことをやってこそ、コミュニケーションは成り立つと思います。コミュニケーションの良し悪しは、他人のせいにしてはいけないのです。

おわりに

一番大事なのは、交通事故に合わない、だと思います。それをふまえた上で、まず自分は何ができるのか、というのが大切だと思います。

他の人がどうのこうの、ではなくて、どれだけ主体的になれるかが大事だと思ってます。

まず、横断歩道を渡るのは左右を見て確認してから、これは徹底したいと思います。歩きスマホで周りを確認しないのは、クルマに轢かれても自業自得、といった考えを持つことが大事ではないでしょうか。

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