この記事は、時間が大変経ってしまったし、お蔵入りにしようかな、、、と思っていたのですが、私がよく見ているブログ「浪速OLくいだおれ日記」では、とにかく季節がバラバラになっても時期が遅くなっても更新する!というようなことが書かれていたので、勇気が持てました。書きます。
2013年の11月末、東日本大震災の被災地・釜石へ、関西から東北を応援するという被災地応援ツアーというのに参加しました。このツアーで見たこと、感じたことは伝えるべきだろうと思ったので、今回記事にします。
関空からピーチで仙台空港へ。仙台空港駅からは、仙台空港アクセス鉄道に乗ります。仙台空港駅綺麗です。
仙台駅に到着。ここからツアーのバスに乗って、岩手県釜石に向かいます。
■道の駅 遠野風の丘
岩手県の沿岸部・釜石へ抜ける峠の手前、国道283号線にある道の駅です。地震直後は、ここが支援物資の拠点として機能していたそうです。
遠くに、仙人峠のある山が見えます。山の向こうが釜石です。
■釜石駅
釜石市の中心駅、釜石駅です。ここで、現地のガイドをしていただく方が乗り込み、ツアーが本格的に開始です。海から1kmちょっとありますが、東北地方太平洋沖地震の時は、ここまで津波が来たそうです。
向かいには、新日鉄釜石が(年配の方は、ラグビーが思い浮かぶと思います)。
JR釜石線の釜石駅です。綺麗です。
三陸鉄道南リアス線の釜石駅です。三陸鉄道といえばあまちゃんです。しかし、あまちゃんの舞台はここではなく、北の離れたところにある、北リアス線です。
JRの駅舎内。釜石駅は、西側から花巻~釜石のJR釜石線、南からは盛~釜石の三陸鉄道南リアス線(盛は気仙沼のすぐ近く)、北から宮古方面からのJR山田線が来ています。JR釜石線は運行していますが、JR山田線は復旧の見通しが立っていません(三陸鉄道南リアス線は、その後の2014年4月5日に全線運行再開)。
■釜石市内
バスの車内からの眺め、釜石市内の中心部です。ところどころ、更地になっています。震災前は建物があったところのようです。
釜石市両石地区。説明では、崖の上付近まで、津波が来たそうです。ちゃんとメモしていなくて、恐縮だったのですが、2013年11月時点で、釜石市で被災した人で復興住宅に入れている方は10%も満たない割合だったという説明(だったと思います)。
2014年9月現在(震災から3年半)で、以下のように公営住宅の完成がまだ1割(岩手が12.7%、福島が5.3%)というニュースがあったので、間違ってなかったと思います。
▽東日本大震災から3年半 公営住宅完成まだ1割 9万人が仮設生活、見えぬ出口 – Sankei BiZ
鵜住居(うのすまい)地区です。コンビニだったんでしょうか。
■釜石市鵜住居地区防災センター
取り壊しが行われる直前の釜石市鵜住居地区防災センターです。
東日本大震災が起こる前、地域で指定された避難場所ではなかったものの、避難訓練でここが避難場所とされていました。しかし震災当日、約200人近くの人がここに避難し、多くの人が津波の犠牲になった悲劇の場所です。
中の様子です。
ここは2階なのですが、天井下のうっすら黒い線がついているところまで、津波で水位が上がったそうです。
ハシゴで屋上に登って助かった人もいたそうです。点検用のハシゴで、避難のためにみんなが登るものではありませんでした。
壁にも穴が開いています。
地元で話合われた結果、この建物は取り壊すことになったそうですが、教訓のためなどで残して欲しいという地元の人もいるそうです。人それぞれで、思うことは違うようです。
2階から見た、鵜住居地区の風景です。
「釜石の奇跡」という話をご存じでしょうか。東日本大震災の時、付近の小中学校の子どもたちが、「津波てんでんこ」でみんな助かったというお話です。
▽生存率99・8%「釜石の奇跡」 「津波てんでんこ」の教えの正しさ 都司嘉宣 – msn産経ニュース
実際、釜石の奇跡が起こったのはこの鵜住居地区防災センターから数百メートルも離れてない場所だったのです。一方で鵜住居地区防災センターでは、多くの人が亡くなるという悲劇が起こってしまいました。このような事実があったことを、私たちは今後ちゃんと活かせていけるでしょうか。
ツアーが終わって家に戻ってきてからのこと。ちょうど取り壊される直前ということで、鵜住居地区防災センターが報道ステーションで放送されていたの見ました。忘れられない話です。
震災前の鵜住居地区の動画を見つけました。以下の動画と震災後の風景を比べると、声にならないです。
▽震災前の鵜住居(平成21年10月)修正後 – Youtube
⇒その2に続く(投稿中)
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